東京高等裁判所 昭和33年(ネ)1316号 判決
すなわち、控訴人はいまだ大学生のころ訴外Aと情交関係を生じその間に昭和八年六月二十五日Hが出生し、その交友はその後も継続し、控訴人が被控訴人と婚姻してからも絶ち切れず、昭和二十五年五月ころからは控訴人においてみぎAを控訴人所有の三鷹市牟礼字井ノ頭池水門三七九番地所在家屋に居住せしめ、昭和二十九年六月被控訴人が後記のように母古山幸方に身を寄せるにおよび、みぎAと情を通じ現在にいたつている。また控訴人は当初みぎAと関係を生じて後に訴外Bとも情交関係を結びその間に昭和十年三月十八日I子をもうけ、控訴人の養子として入籍せしめこれを養育している。控訴人と被控訴人と婚姻した当時、控訴人は四十歳で数種の事業を営みその収入も豊かであつた。被控訴人は当時二十五歳の初婚の女性としてこのような控訴人と婚姻したのであるが、間もなく戦争が激しくなつて昭和二十年五月ころ被控訴人は母古山幸、妹昌子らと山形県に疎開し、控訴人は同年八月初応召した。終戦後間もなく古山幸、昌子および被控訴人は疎開地から帰京し、控訴人は復員したが、古山幸の家が戦災で焼失したため一時控訴人の肩書住居に同居し、約二年の後みぎ幸、昌子は別居し、また被控訴人には前記のように桂、昭子が生まれた。終戦後数年控訴人の営む事業は隆盛で収入も大であつたが控訴人はそのほとんどを外部との交際、遊興等にあて生活費として被控訴人に与える金額はきわめて少額であり、かつ被控訴人にたいする情は冷淡であつて、常に夜遅く帰宅し、寝食を別にするのが通例であつた。昭和二十七年のなかごろ控訴人は事業に失敗し一挙に資産を失い生活に窮するにいたり、妻子を顧みないので、被控訴人はやむなく婚姻のさい持参した衣類、家具類を売却しまた母幸や姉憙子や媒酌人であつた伊東たまから金銭を借用するなどして家計を支えていたが、ついに食糧の入手にさえ事欠くに至つた結果、昭和二十九年六月一時前記桂、昭子の二児を控訴人のもとにおきその日常の監護を隣家の者や前記伊東たまに託し、単身麹町の母幸のもとに赴き、子供らの引取方を準備した上昭和三十年三月控訴人と協議して二児を引き取り、その手元で養育して現在に及んでいる。被控訴人がみぎ二児を引き取るにさいして控訴人は養育料として毎月八千円を被控訴人に支払う旨を約束したがこれを履行せず、その後は自己の身辺の面倒を前記Aに委ね事実上夫婦同様の関係にあり、かつ現在定職なく、約千万円の債務を負担し不安定な生活状況にある。以上のとおり認めることができる。原審ならびに当審における控訴人本人尋問の結果や当審証人田中清の証言のうちみぎ認定に反する部分は信用できない。
みぎの事実とすれば控訴人と被控訴人とは現在実質的にすでに夫婦としての関係なく、相互の愛情は全く冷えて回復の見込がないものと認められ、みぎは民法第七七〇条第一項第五号にいわゆる婚姻を継続しがたい重大な事由がある場合にあたるといえる。したがつて被控訴人の離婚の請求は正当として認容せらるべきである。
(牧野 谷口 満田)